磐船神社

磐船神社

大阪府交野市私市9丁目19-1

磐船神社の御由来

磐船神社は天照皇大神の御孫神であり、日本書紀などによると、神武天皇のご東征以前に大和の国に天の磐船で天降られた天津神です。

また、先代旧事本紀によると「天尊瓊瓊杵尊に先立ち天祖の詔をうけて十種端の神宝を持ち、32人の伴緒を率いて天の磐船に載り、天翔り空翔り河内国川上哮峰(いかるがのみね)に天降られた」とあります。

太古の枚方(シラカタノ津)付近は入り江となっており、大和に入るには哮峰の麗を流れる天野川を遡りながら大和に入るのが行きやすい道だったと考えられます。

御祭神は当地に降臨された後はまず、十種端神宝(とくさのみずのたから)を以て病み災う者を助けて導かれました。
十種端神宝は後に『十種の祓』の根源になり、現在も鎮魂行法の根本となってます。

その後、神武東征で東征軍に敵となる鳥見の首長である長髄彦をいさめて、神武天皇の大和創業の基幹となり代々武人の一族である物部氏として朝廷に仕え、御祭神はその遠祖と崇められました。

十種端神宝は永く代々の朝廷と共に栄えましたが587年に物部蘇我の争いからついに物部氏は滅亡します。
以来、磐船神社は影響を受けて衰退を余儀なくされましたが、御祭神と十種神宝は人々から厚く信仰されて、その根本的な意義は現在も神道の血肉となって伝承されています。

磐船神社は古くは、物部氏、特に交野に住んでいた肩野物部氏が祖先降臨の地として祭祀を行い、物部氏の滅亡後も岩船・星田・河内田原・大和田原の近隣4村の総氏神として信仰されています。
また、当地は生駒・葛城の修験道の発祥地の近くに位置し、中世以降その影響を強く受けました。

生駒修験の北端として栄えましたが、江戸時代の半ばに相次ぐ天災によって社殿を失い、交通その他の事情により、村々はついにそれぞれに御分霊を祀り、宝物をも分祀しました。
そのことで磐船神社は衰退の一途をたどりついには、岩船のみが残るありさまとなってしまいました。

しかし、昭和に入り社殿などが整えられて、ようやく復興を遂げたのです。

磐船神社の祭日

春季例祭・・・5月5日

※岩窟の写真はカメラを持ち込めた当時の写真です。現在はカメラの持ち込みが禁止されています。

作者コメント肩野物部氏の拠点として栄えた『磐船神社』。時代が進むと石窟をくぐることで生まれ変わりを体験するという信仰が生まれます。また、天孫降臨の地としても有名でどこか高千穂の地にも似ているような気がします。

5/5 (1)

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